基礎研究者の好奇心とその価値 ~岸本忠三先生のご講演から考えたこと

昨今、トランスレーショナルリサーチ(橋渡し研究)といわれる「基礎研究を如何に実社会に反映させるか」という課題を持った研究に巨額の予算と人が動員されていますね。

私自身、衛生化学を専攻しておりまして、応用に近い分野に力を入れていただけるのは私にとっては喜ばしいことなのです。しかし、純粋な好奇心からの基礎研究がしにくい空気になりつつあるのも事実です。「基礎研究なんてただの趣味でしょ?」その一言に反論……というより、好奇心から来る趣味のような多様性を持った研究であるからこそ基礎研究が重要である、という私の考えを述べていきたいと思います。

というのも、基礎研究の重要性について考えたのは、IL-6を発見したことで数多くの自己免疫疾患患者を救った岸本忠三先生(元大阪大学総長)のご講演を拝聴したのが発端です。

先生の講演の言葉を一部お借りすると、
「当初は私の研究の目標は決して病気の治療につながることをめざした訳ではない。抗体産生のメカニズムを知りたかっただけであり、それを通してどうして自分の体の成分に対して抗体が出来るのか知りたい。しかし私がいつも言うように真髄をついた研究はそれが生命科学の研究であれば必ず病気の発症機構や治療につながっていく。はじめから実用化をめざした研究が大きく発展することはまずないと言ってもよい。」

私は、基礎研究(基礎研究とは - コトバンク)を行う研究者は、芸術家に近い精神性を持っていると思います。
彼らの職業の価値は誰もやってこなかったこと、やってできるかどうか分からないこと、誰かが挑戦ても成しえなかったことを形にすること」にあります。言葉で形容することは簡単ですが、一筋縄ではいかない自然科学の一端を解明することが彼らの生業なのです。その “誰も到達しえなかった” 仕事は、クライアントによって与えられるものではなく、己の好奇心、表現したい情熱によって選択され、同じくその思いを最大の原動力にして一つの作品(論文)を生み出しますそして、彼らはその作品でもって自らの生き様を語るのです。
彼らにとって、自らの情熱を燃やし、好奇心を満たす場さえあればそれに対する他者の評価など(本来であれば)必要ないのです。作品の価値は、他者の評価によって後から “勝手に” ついてくるのです。

もちろん、○○という現象を解明したら、あんなことやこんなことに役立てることができる! と考えて研究する人もいます。私なんかもそうです。
こういう考えを持つ人の多くは、バリバリの基礎研究というよりも、基礎と応用の中間のような研究をする方が多いのではないでしょうか?

私がこれまでに見てきた生粋の基礎研究者のほとんどは、好奇心のみによって動いていると言っても過言ではありません。そして、その好奇心が強い人ほどアグレッシブに行動をしているように思えます。


有限な研究資金、人員のことを考えると、一見、無意味に思える “一人ひとりの好奇心によって動く” 基礎研究ですが、私は 、"今" 社会に対して役に立つかどうかわからないことに基礎研究としての価値があると思います。

その理由の一つは、好奇心という多様な視点によって、研究の穴埋めができるからだと思います。

ある課題を与えられ、その課題を解決するようにプロジェクトを進行させたら、個人差による差異は少なからずあるものの、プロジェクトに関わる彼らの視点はおおまかにはその課題解決の方向に向きます。この場合、多くの人の視点が同じ方向に向けば向くほど最短最速での解決が可能になるので、プロジェクトの進行がうまくいっている時はこれでいいでしょう。

しかし、一旦プロジェクトがうまくいかなくなった場合、その方向とは別の視点を探さなければなりません。この時、新しい視点や思考方法、あるいはその答えそのものを提示してくれるのは、全く別の人の好奇心によって生み出された、全く違う視点を持つ思考方法、つまりは基礎研究なのです。だからこそ、基礎研究は今は評価されなくとも、後になってから急に評価され始めるということがあるのだと言えます。

考えて見て下さい。社会的課題の解決を目的とした研究しかない世界だったらどうなるでしょうか? それは、ある種、「社会的課題の解決」という見えない力によって、無意識に同じ視点を向くように仕向けられているようなものです。それでは、現代社会に横たわる多様で複雑で、往々にして姿を変える問題を解決することはできないでしょう。
だからこそ、その力の奔流にとらわれない自由な思考をする者が必要なのです。その自由な思考をする者こそが基礎研究者であり、その思考の自由さは好奇心という個々人の多様性によって生み出されるのだと、私は考えます。

必要のない研究など、本当は無いのです。
あるのは、役に立たせることのできない人の未熟さだけなのです。