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見えないものを見ようとして、顕微鏡をのぞきこんだ。

ある理系院生の備忘録 ~RiskとBenefitの狭間に揺れて~

報われると思っていた努力が報われなかった君たちへ ―Google Science Jam 2015 の報告

先日11月14日に、今年の8月から行われていたGoogle Science Jam 2015の最終発表会が日本科学未来館にて催されました。

https://www.google.co.jp/events/sciencejam2015/

簡単に言いますと「高校生が科学研究をしてサイエンスの力で世界を変えよう」というイベントです。書類審査を通過した上位30チームそれぞれに、志願した大学生または大学院生がメンターとして彼ら高校生の研究をサポートします。私もそのメンターの一人でした。

8月上旬のキックオフキャンプに始まり、約3ヶ月間高校生は自身の打ち立てた研究に必死に取り組んできました。とりわけ私は、自覚できるほど厳しいメンターでしたので、高校生もきつい思いをしたことがあったかと思います。

結果は、私の担当したチームは何一つ受賞することができませんでした。私の担当したチームと同じ高校の、もう一つのチームがグランプリ(最高賞)を受賞するという結果になりました。

大会終了後、私は真っ先に、チームの親御さんからこのようなことを言われました。

 

 「お世話になりました。が、どうしてうちのチームが受賞できないんですか? あっちのチームは受賞しているのに。うちの子はねぇ、夜中の2時ごろまで泣きそうになりながら頑張っていたんですよ!  毎日3時間や4時間くらいしか寝てなかったんですよ! どうしてそんなに頑張って努力したのに、受賞できないんですか! 文化祭の準備だってなんだって、部活動のいろんな雑務をおしつけられて頑張ってきたんですよ! それなのに、どうしておいしいところだけあっちのチームが持っていくんですか! こんなのおかしいです!」

 

ええ、お気持ちはお察しします。
自分の子供の所属するチームが評価されないということは悔しいと思います。

実際に子供たちも

「こんなに頑張ったのに評価されないんだぁ。」
「意味なかったのかなぁ。全部水の泡に消えた。」
「せっかく他のことを犠牲にして努力したのに……」


と小さな声で呟いておりました。
苦虫を噛み潰したような表情。少しうるんだ眼。その視線の先には周囲から誉め称えられる同年代の高校生の姿が映っていました。この研究発表のための準備に、彼らはこれまでの人生で最大限の努力したことでしょう。その努力が報われなかった悔しさや憤りから出るやり場のない負の感情が手に取るように伝わってきました

私は、彼ら高校生の顔を見て、親御さんの言葉を聞いて、メンターとしての行わなければならない最大の仕事が、ここから始まると気付きました。そう、終わった後のメンタリングです。

 



「努力はうそをつかない」

中学時代、私の所属する野球部の監督が掲げていたスローガンです。

 

似たようなものとして、“努力は必ず報われる” とか “努力は裏切らない”、“努力は必ず報われるとは限らないが、成功している人は皆努力している(から努力しろ)” などの言葉を知っている方は多いと思います。

この言葉は、日々のつらい練習を乗り越えさせ、試合や大会の最中、緊張と不安に満ちた場面に遭遇した時にこの言葉がこれまでの努力を想起させ、自信を持たせてくれました。未だに、私の大切な信条の一つとなっております。

 

しかしながら、こうした言葉を自身の信条にしていると同時に、
私はこれらの言葉を他者に使うことがあまり好きではありません。
むしろ、簡単に使われていることに嫌忌すら感じます。

 

 

努力は嘘をつかない。

努力は必ず報われる。

 

おそらく、高校生ないしはその親御さんは、
人生の中で何度かこの言葉を耳にしてきたでしょう。

「とにかく努力しろ」という意味を内包して。

 

これらの言葉の本質を正確に理解し、自らの一部にしている人が発した場合でない限り、うわべだけ子供たちに伝えてもそれは伝わりません。

 

「ああ、とりあえず頑張って努力すればいいんだ」

と勘違いすることは必至です。特に人生経験の浅い子どもたちならなおさらです。
実際、私も努力を正しく理解していた指導者のもとにいたにも関わらず、中学2年生くらいまではそう思っていましたし、大人の中にもこのように勘違いしている人は多数いることを実感しています。

 

当然ですが、違います。

 

「今回は運がなかった」
「その努力は、長い人生のいつか別のところで役に立つよ」
陳腐な言い回しで報われなかった努力に対する正当化をする人も大勢います。時に、その長い努力そのものが美談として扱われることさえあります。これもまた、努力さえすればいつかは報われると信じて疑わなくなる要因の一つであると私は思っています。

 

 

努力に対する過剰な信仰は盲目的な努力を促し、真に努力すべき事柄を見えなくさせてしまいます

 

闇雲な努力、明確な終着点を定めない努力、終着点に対して方向性のずれた努力、ありとあらゆる誤った努力、それらは全て単なる自己満足です。ただ、遮二無二に努力すれば報われる。思った通りの成果が得られる。こう考えることは本当に努力しなければならないことは何か、それを考えさせる努力を欠落させてしまいます。だから、私は「努力が重要だ」とただ単に叫ぶことが嫌いなのです。努力という言葉の真意をくみ取れる者がほとんどいないから使えないのです。

 

その努力が報われるために本当に大事なのは、
努力をすることそのものにあるのではなく、
正しい努力をすること、つまり、

明文化できる終着点(何を目標の達成と捉え、誰に、どのように、どれだけ評価されたいのか)を定めたうえで、その終着点をもとに明確化した努力の方向性と規模を十二分に達成すること

であると私は考えています。

 

私は、受賞を逃した直後に高校生らが発した第一声、親御さんが吐露した不満から、彼らは、努力は全て報われるべきだと信じて疑っていないということが読み取れました。実際、このような大会に出る高校生です。これまでの人生で、うまくいかなかったこと、挫折したことはあまりないのかもしれません。だからこそ、余計に私は高校生たちにこのことを伝えなければならないと感じました。

 

本来であれば、メンターである私が、大会の終わったその瞬間ではなく、3ヶ月間の研究指導の過程で彼らの心の機微を読み取り、正しい努力の仕方を提示する必要がありました。大会が終わった後にしか、上記のことを言えなかったことに対し、非常に悔いが残りました。このことが、彼らが受賞できなかった要因の一つであると私は考えております。メンター賞という光栄な賞を頂戴し、評価していただけたことは大変うれしく思いましたが、同時に、自身の力不足に深く反省しました。

 

 

 


“メンター最後の仕事:受賞を逃した時の支え”

一方で、彼らの努力が無駄にならないように撒いておいた布石が生きたとも感じました。

 

これまで、私はかなり多くの学会で狙った受賞を逃したことがあります。

とくに不満を残した状態で狙った受賞を逃した後は、悔しさと憤りの混じった大きな負の感情に支配されますが、その大きな感情を向ける矛先はありません。

 

ただいたずらに感情を発散させるだけか、意気消沈して何もかもやる気をなくすかの二択です。気持ちが入っていればいるほど、その時に生じる負の感情も大きく、その後の反動も大きいでしょう。

 

そんなときに、すっと手を添えて、その感情を向ける先を示してくれる存在がいること、この存在が極めて大きいのです。このような存在がいることで、負の方向に傾いていた大きな感情が、新しく示してくれた先への大きな原動力になるのです。次につながるアシストをすること、これが、メンターとして最も重要な役割なのではないかと私は思います。


私は運の良いことに、その感情、原動力を生かせる次のステージを提示してくれる指導者に恵まれ、おかげさまで今日まで自分の思っている以上の成果を出し続けることができております。

 

 

同じように私は、彼ら高校生が受賞を逃したとき、同様の感情に支配されることを想定して、すっと手を差し出して彼らを支えられるように、こっそりと準備しておりました。

彼らにとっての終着点はGoogle Science Jam 2015での受賞だけだったのかもしれませんが、私が彼らの研究内容を最初に知った時、「これは論文化できるな」と感じました。ちなみに私は、研究業績としての価値が大きいのは、学会での受賞よりも他の研究者が引用できる論文だと思っております(もちろん全てがすべてではありませんが)。

 

そこで私は2つの終着点を設けました。

1つは11月14日のGoogle Science Jam2015での発表。

そして、もう一つが論文投稿でした。

 

とはいえ、高校生にとって論文投稿は極めて高いハードルであり、そのことを発してしまうと委縮してしまう可能性がありました。モチベーションを落とさず、論文化できる研究内容となるような指導に加え、自分達の研究の文章化(論文草案の作成)まで行うように指導しました。

高校生らのキャパシティを超えるようなら諦めるつもりでしたが、彼らは私の厳しい指導の大半を乗り越え、論文投稿のための第一稿となる草案まで完成させました。おかげさまで、今では彼らは論文投稿という次の目標を見つけ、それに向けて突き進むことができるようになりました。

 

そうです。彼らは Google Science Jam 2015 という終着点では努力は報われませんでしたが、その努力を継続する先、終わった直後の大きな感情を向ける先を見つけたのです。その時の憑きものが取れたかのような清々しい顔は今でも忘れられません。

 

Google Science Jam 2015が始まる前に、運営の方たちとメンターが集まって、メンターとは何かという話がありました。ガードレールのような存在、そっと道を提示してあげる存在、その表現は様々でした。

大会が終わった直後にこそ、メンターは、
「彼らの持っている大きな感情の、次のステージに向けた道標となる」という最後にして最大の仕事があるのではないかと思います。

 

これで私は、Google Science Jam 2015としてのメンターは終わりましたが、現在は互いに論文投稿に向けた作業を進めております。

 

 

“世界を変える研究とは”

ここからは私の担当したチームだけの話ではありません。
私の担当したチームを含む全チームの発表を聞いて感じたことを書きたいと思います。

↓ 全発表動画

Science Jam 2015 - YouTube

 

これからどうすればもっとよくなるか、とくに気になった2点だけ書かせていただきます。

 

1つは統計解析です。

特にアンケート系の研究に対してこれは強く思いました。研究で世界を変えるためには、小・中学校の自由研究ではできません。きちんと、大多数の方がその通りだと認められる客観性を持っていなければなりません。

 

何をもって増加、減少と判断したのか

何をもって2つの事象が相関していると判断したのか

 

これをサポートしてくれるのが統計学です。

ほぼすべての研究成果において、その統計学が蔑ろにされていました。
もし、私が統計学者なら泣いているレベルです。

 

統計学者は、どうすれば正確に、偶然の中に潜む“違い”を数値化できるかというテーマに対して苦心して研究をしています。それを全て無視して研究成果を出されてしまってはたまったものではありません。

 

統計解析は研究においてスタンダードです。ぜひとも、世界を変える研究とするためにも、次回以降では統計解析まで行った発表をしてもらいたいと思います。とくに、高校生はこうした統計を学ぶ場がないため知りえません。存在さえ知らないかもしれません。Googleおよびメンターがその重要性をきちんと説明する必要があると感じました。

また、相関関係と因果関係、可能性と断定、このあたりを研究発表においての最低限のレベルで使いこなせない高校生も一部見受けられました。ちょっとどうかなと思ったのは、それを指摘する人が見受けられなかったこと、それどころか、ほめたたえている姿が大半であったことに私は多少なりとの危険性を感じました。

 

彼ら、彼女らが「ああ、研究ってこれでいいんだ。」と思ってしまうことは一番避けなければならない事象です

 

確かに、 彼ら高校生に研究の楽しさを感じてもらうこともイベントの目的の一つでしょう。しかし、世界を変えると豪語しているイベントでこれはいかがなものかと思いまし。いつの日かその応報を受けるのは彼ら、彼女らなのですから、我々にはそれを正す責任があると言えます。実際に私が、上記のことを教えた時、その高校生は非常に強い向上心を持っていたため、十二分に吸収して今後の研究に役立てるとの意志を示しました。私の連絡先を聞いてくるレベルでした。高い吸収力と向上心、そしてコミュニケーション能力を持っています。きちんと高校生の立場に立って、その事実を教えれば、彼らはすぐさま吸収できます。良いところをどうすればもっと伸ばすことができるか、改善すべきところはどこで、どうすればそれを直すことができるのか、そのことをきちんと説明できる人があの場にはもっとたくさん必要だと思います。


 2つ目は、引用です。

研究をするというのは、自身の世界で思いついたことを実証することではありません。そういう時代もありましたが、今はもう違います。現代に生きる自分達が行う研究の大半は、これまで脈々と受け継いできた研究という大きな流れの先端にあるのです。自分の打ち立てたテーマが巨大な研究の奔流のどこに位置するのか、なぜそれが課題なのか、それを読者に理解してもらうためには、先行研究が明らかにしたエビデンスを提示した引用が必要になります。

 

その先行研究として、きちんと査読された論文を引用している研究チームは極めて限られておりました。自分達の話をした背景、そして考察、その根拠はどこにあるのかを原著論文を元に提示しなければ、聴衆や読者はその研究の意義を判断することができません。

 

ぜひとも、次回はしっかり引用を意識した研究をしていただきたいと感じます。

 

また、裏を返せば、高校生たちの研究が引用できるレベルであることが望ましいと思います。残念なことに、研究は、商品化、特許化、あるいは論文化しなければ、この世界に存在したことになりません(特別な例外を除いて)。高校生にとっては、なかなかにハードルは高く、一朝一夕でできることではありませんが、実際に国際誌に投稿するレベルの研究をしている高校生もいます。


高校生の研究で世界を変えることが目標であるのならば、その前に、その高校生の研究が世界で認められなければなりません。

 

そのためにも、きちんとした引用、研究のルールをしっかりと守った研究ができるように、そのルールを高校生に教えたほうがよいと私は思います。

 

もちろん、研究の華やかな世界、楽しい世界、おもしろい世界を子供たちに見せて、夢を持たせることも大事です。一方で、どうすれば客観的に自分達の研究を認めてもらえるか、そこに頭を悩ませることも彼らの成長に重要なのではないかと思います。

 

 


 

 いくつか、私の願望を書きましたが、私自身そして高校生にとって大変成長できる素晴らしい機会でした。今回は第一回であり、運営側も試行錯誤の点が多かったかと思いますが、それでも私の知るイベントの中ではかなり完成度が高ったと思います。次回以降、よりよくするために、参考になればと思い筆をとらせていただきました。次の機会では、どのような高校生が現れるのか、今から楽しみでなりません。